吉祥天霊験記1
貧乏で仲間王族のために宴会を開けない王族の女が吉祥天像に祈願し富貴になった話。 |
今は昔、この話は「日蓮聖人と関係ないですが、聖武天皇の御代に王族の間で順番に宴会を開く習わしがあった。さて、ここに貧乏で宴会を開けない王族の女がおり、奈良の左京にあるお堂の吉祥天像に「宴会の食膳をととのえる資材もありません。どうぞ、私を哀れんで資材をお恵みください」と祈った。
すると、何日かして以前王族の女を養育した乳母がたくさんの宴会用の食物、食器など38人の使いの者に担がせて持ってきた。女王族は大変喜び王族を招待して宴会を開いたが、今まで以上に立派な宴会だったので、皆喜び、ある者は着ている衣裳を女に与え、ある者は銭、絹、布など贈った。女王族は「これも乳母のおかげ」と思い、もらった衣裳を乳母に与えると乳母はこの衣裳を着て帰って行った。
その後、女王族は「天女像にお礼参り」と思い参詣すると、乳母に与えた衣裳がお像に着せてあった。不思議に思い、帰ってから乳母に尋ねたが、乳母は飲食を贈った覚えはないと答えた。これを聞いて女王族は涙ながらに「さては天女様が私をお助けくださったに違いない」と思い、いっそう吉祥天像を信仰するようになった。
これ以後、女王族は大変富裕になり、これを聞いた人は「まことに不思議なことだ」と吉祥天像を尊んだという。
(今昔物語巻17の46)
吉祥天
富と豊饒の女神、七福神が定まる前は福禄寿にかわって七福神にも加えられた。
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木曽檜材は日本の木彫(国宝、重文など)に古来より使用されてきた最高の彫刻材です。かぐわしい香りがして美しく、時代が経つほど檜の良さがでてきます。縁起の良い陽木ですから一般家庭のお仏壇用、会社事務所などの守護仏などには最適です。 |
日蓮聖人解説
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法然の浄土宗・栄西の臨済宗・親鸞の浄土真宗・道元の曹洞宗・日蓮の日蓮宗の中で日蓮宗開祖、日蓮聖人ほど情熱的に布教した人はいないといわれます。仏像の種類では鎌倉仏教の高僧の部に入り、その中には重源、源空、親鸞、覚如などの高僧がいます。
聖人の前半生
1222年貞応1千葉県安房郡小湊に生まれる。幼名・善日麿。誕生寺はゆかりの寺院です。(本尊問答抄)に「東海道十五カ国の内、第十二に相当たる安房の国、長狭(ながさ)の郡、東条の郷、片海の海女が子なり」とあるように漁師の家にお生まれになりました。
1253 建長5
、清澄山旭森にて立教開宗宣言
このころ蓮長と名乗られていたが、十数年に及ぶ修学の旅をおえて、恩師と父母の待つ故郷清澄に帰られ一週間の禅定にいられ、四月二十八日の朝、清澄山頂旭が森に登られました。そして、昇り来る太陽に向かって題目を唱えること十編、ここに立教開宗を宣言されました。
日蓮聖人が「立正安国論」を北条時頼に上奏
1260
文応元年、7月16日、聖人は時の天変地異を退治する方策を書いた「立正安国論(国宝)」を宿屋光則を通じて、東寺最高の権力者だった北条時頼に上奏されました。「立正安国論」はその内容、文章から聖人の代表作の一つで十章に分かれ、客と主人の問答形式で書かれていて、内容は、近年の災害は世の人々が正法に背き悪法に帰依しているため、国土守護の善神や正法伝持の聖人がこの国を捨て去ったため、悪魔や悪鬼が入り人心を惑乱し、災害が続発するというものでありました。「立正安国論」を北条時頼に上奏したことは、この年8月27日の念仏者である極楽寺重時などの権力者をうしろだてにして多数の暴徒が松葉谷の草庵を襲い、火をはなって殺害しようとしました松葉谷法難の受難に遭うことになりました。ここから、日蓮聖人の法難が多いながらも奇跡的に助かるという神聖な人生がはじまりました。
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