地蔵菩薩霊験記5
京の祗陀林寺(ぎだりんじ)の僧仁康(にんこう)が、疫病が流行した時、地蔵様の像を造り人々を疫病から救った話。 |
今は昔、京の祗陀林寺に慈悲深い仁康という僧がいた。治安三年(1023)、京をはじめ全国に疫病が流行し、路上が死人で埋まるほど死ぬ人が多かった。
その頃、仁康は夢に小僧が現れ「地蔵菩薩像を造り、その前で地蔵の功徳を褒め称えよ、しからば苦しむ人々を助けてやろう」と告げられたので、仁康はただちに四天王像も人気の大仏師、康成(こうじょう)に地蔵菩薩、地蔵様を造らせ開眼供養し、地蔵講を始めたところ、僧も俗人も男も女も皆来て結縁(仏道修行の道に入り成仏の因縁をむすぶこと)した。
すると結縁した者は誰一人疫病にかからなかったので、この地蔵講は盛大になった。仁康は老いて臨終の時も阿弥陀如来、地蔵菩薩の名号を唱えながら眠るがごとく大往生した。
思うに、現世、来世に渡るご利益は地蔵さまの誓いに過ぎるものはないのであるから、世の人々はいつの世も地蔵菩薩を信仰すべきである。
(今昔物語巻17の10) |
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木曽檜材は日本の木彫(国宝、重文など)に古来より使用されてきた最高の彫刻材です。かぐわしい香りがして美しく、時代が経つほど檜の良さがでてきます。縁起の良い陽木ですから一般家庭のお仏壇用、会社事務所などの守護仏などには最適です。 |
牛頭天王解説
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インド祇園精舎の守護神といわれ、京都祇園社(八坂神社)の祭神。神体はスサノウノミコト。全国の八坂神社・祇園神社・津島神社で祭られます。昔は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていったと考えられ、右手に斧、左手に索を持つ二臂像で牛頭を頭につける忿怒相です。 |
仏像販売木彫・牛頭天王画像一覧
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牛頭天王
木曽檜木地
身丈10cm 総丈20cm
¥185,000より
瑞雲作
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仏師 松田瑞雲プロフィール |
昭和28年 鹿児島生まれ
僧侶でありながら、仏師として活躍。全国各宗派寺院の本尊を多数製作。ニューヨークで個展を開くなど多彩に活動。 |
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仏像販売に一言
悟りを開かれたお釈迦様は、悟りの内容があまりにもすごいので人々に説くべきか否かで躊躇されていましたが、梵天勧請といって梵天の薦めもあって、まず修業時代の5人の仲間に教えを説かれました。時間はかかりましたが、この5人の弟子との集団が仏教教団のはじまりでした。この時点では仏像などまだありません、托鉢用の器しかなかったのです。
さて、牛頭天王はインド祇園精舎の守護神仏像といわれますが、祇園精舎はどのようにしてできたのでしょう。モンスーンの影響をもろに受けるインドでは夏の三ヶ月間は雨期に入り殆どの川は蛇行しているので氾濫して交通は遮断されます。そして草木が大成長するので虫が大発生します。この雨期には安居(あんご)といって洞窟や建物にこもって外に出ないことが一番良いので、仏教以前のインドでは修養期間としてじっとしている風習が出来ていました。
お釈迦様の教団も、この雨期には、そろそろ安居用の建物が欲しくなっていたのでした。そこへ、お釈迦様が最初に教えを広めようとされたインド北部ラージャグリハのビンビサーラ王が現れご自分の支配下であった竹林を寄進され、建てたのが竹林精舎と呼ばれる安居用の建物でした。この竹林精舎が形の整った安居の第一号でした。その後、スダッタが寄進した祇園精舎など他にも場所が増えました。安居の期間は5月15日から8月15日頃とされ、再び各地に旅に出ていきました。日本でも天武天皇13年(684)に安居がはじまっています。
いずれにせよ、雨期を利用した修養期間は修行の上でたいへんなプラスとなったことでしょう。仏像彫刻においても同じで、私は僧侶と仏師の修業時代、夏の暑い時期は油土という粘土を使って牛頭天王ほか聖観音とか不動明王などの造形を原型作りしていました。彫刻刀は暑い夏は指から出る汗で滑ってしまいますが、粘土は影響をうけません、良い仏像の原型ができたものです。それが現在につながっています。
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