地蔵菩薩霊験記5
京の祗陀林寺(ぎだりんじ)の僧仁康(にんこう)が、疫病が流行した時、地蔵様の像を造り人々を疫病から救った話。 |
今は昔、京の祗陀林寺に慈悲深い仁康という僧がいた。治安三年(1023)、京をはじめ全国に疫病が流行し、路上が死人で埋まるほど死ぬ人が多かった。
その頃、仁康は夢に小僧が現れ「地蔵菩薩像を造り、その前で地蔵の功徳を褒め称えよ、しからば苦しむ人々を助けてやろう」と告げられたので、仁康はただちに不動明王像が人気の大仏師、康成(こうじょう)に地蔵菩薩、地蔵様を造らせ開眼供養し、地蔵講を始めたところ、僧も俗人も男も女も皆来て結縁(仏道修行の道に入り成仏の因縁をむすぶこと)した。
すると結縁した者は誰一人疫病にかからなかったので、この地蔵講は盛大になった。仁康は老いて臨終の時も阿弥陀如来、地蔵菩薩の名号を唱えながら眠るがごとく大往生した。
思うに、現世、来世に渡るご利益は地蔵さまの誓いに過ぎるものはないのであるから、世の人々はいつの世も地蔵菩薩を信仰すべきである。
(今昔物語巻17の10) |
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弘法大師空海解説
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真言宗の宗祖です。空海は宝亀五年(774)〜承和二年(835)の人。
高野山真言宗ではご本尊大日如来像の右脇に御安置します。
弘法大師の前半生
宝亀5(774)年、6月15日に護岐国多度郡、現在の善通寺市に誕生。幼名は真魚(まお)。6月15日に、
中国密教の不空三蔵が入滅したので、不空三蔵の生まれ変わりとされました。
延暦10(791)年、大学(明経科めいけいか)に入学するが、貴族出身の学生達の校風に失望し、大学を中退して山林に入り虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行する。空海を名乗る。
延暦16(797)年、「三教指帰(さんごうしいき)」を著し、儒教、道教、仏教を比較し仏教の優位性を説く。
延暦23(804)年、遣唐使として唐に行く。
延暦24(805)年、青龍寺の恵果に入門して伝法灌頂を授かる。
大同1(806)年、33歳の時、経典や仏像など貴重品を持参して帰国する。
大同4(809)年、朝廷の命により京都の高雄山寺(たかおさん 神護寺)に入る。
あらゆる才能に恵まれたマルチ人間弘法大師空海
弘法大師は、空海と名乗りますがスケールの大きい名前ですね。「空よりも広く海よりも深く」ともとれこれはまさに「仏教」そのものを差しますが弘法大師空海は万能の才能を持ち三教指帰(さんごうしいき)その他多数の著作を書き、「弘法にも筆の誤り」という諺が生まれるくらい書道にも優れていました。唐の長安に留学していたときも一度に五本の筆を使える「五筆和尚」と讃えられました。空海は宗教家としての傑出した才能だけでなく、曼荼羅を描く画家、漢方薬を作る医学者、庶民のための最初の学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を建てたり土木建築の監督をしたりと、文系、理工系ありとあらゆる才能に恵まれたスーパーマルチ人間だったんです。凡人は一つのことに才能があればいい。しかし、このようなマルチ人間は万人に一人もいません。何でも出来ることは、別な見方をすれば何にも出来ないことに通じます。この人は「これ」、「このこと」ならこの人が一番という方がわかりやすくて有り難みもあるというものです。自閉症や障害のある方に特別な才能があって著名になった例がよくあります。凡人は一つのことに才能があればいのでは、そしてそれを一生追い求めていけばきっといつかは「その道の大家」と言われるくらいになれるでしょう。
真言の高僧に入り、その中には弘法大師十大弟子 聖宝、益信などがいます。
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仏像販売木彫・弘法大師空海画像一覧
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